2024.11.18
突然ですが、以前から不思議に思っていた事を書きます。それは朝鮮戦争です。
この戦争は、1950年6月の北朝鮮の38度線侵入に始まり、1953年7月、北朝鮮軍、中国軍と国連軍との間に休戦協定が結ばれるまで続きました。
それまでの経緯を簡単に記しますと
・1949年1月~4月に掛けて、韓国軍が37回38度線以北に侵入
・1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて砲撃を開始
・1950年6月28日、ソウル陥落 北朝鮮軍は快進撃を続け
・1950年9月 韓国軍は釜山近郊まで追い詰められました
・1950年9月15日 アメリカ軍の攻撃が本格化、仁川作戦が開始、月尾島上陸
・1950年10月7日 アメリカ第一騎兵師団、38度線超え北進開始
・1950年10月19日 中国軍が鴨緑江を渡河、北朝鮮に進軍開始
・1950年11月25日 中国軍、第2次総攻撃開始、アメリカ軍は清川江の南まで押し戻 される
・1951年1月4日 中朝軍ソウル再占領
・1951年1月25日 アメリカ軍北上開始
・1951年2月10日 アメリカ軍漢江ラインを回復
・1951年2月11日 中朝軍反撃開始 平昌、横城、進出
・1951年2月21日 国連軍、北進開始 漢江南岸、砥平里、横城、江陵を掌握
・1951年3月7日 アメリカ軍更に北進 洪川、春川、ソウルを奪回
・1951年4月9日 アメリカ軍前進 臨津江、金鶴山、広徳山、白雲山を占領
・1951年4月11日 マッカーサー司令官 解任 (原爆使用を求めていた)
・1951年4月21日 アメリカ軍前進 連川、鉄原、金化、華川目指して北上
・1951年4月22日 中朝軍攻撃開始 国連軍はソウル北側、清平南側、洪川北側、襄陽
北側まで後退
・1951年5月15日 アメリカ軍反撃開始 臨津江、全谷、華川、襄陽を回復
・1951年5月26日 中国軍、破慮湖の戦いに於いて大敗北、2万人以上の死者を出し、
進撃中断
これ以後、中朝軍は西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築し、更に兵力を86万7千人(中国軍 64万2千人、北朝鮮軍 22万5千人)に増強、国連軍60万人を大きく凌駕し、戦況は38度線付近にて膠着状態となりました。そして
・1953年7月27日 38度線に在る板門店にて北朝鮮軍、中国軍と国連軍との間に休戦協定が結ばれました。(現在も休戦中であり、戦争はまだ終わって居ません)
この戦争の死者は、韓国軍20万、アメリカ軍14万、国連軍36万、中国軍40万、北朝鮮軍50万、民間人200万(一説では400万から500万とも言われています)
今振り返って観ますと、この戦争には幾つかの疑問が在ります。それは
・戦争前の韓国軍の37回に及ぶ侵入は一体何が目的だったのか?
・何故アメリカは北朝鮮の攻撃を察知できなかったのか?
・何故アメリカは韓国の防備を薄くしたのか?
此処からは、私の全くの個人的見解である事を明記して置きます。
アメリカは日本との戦争時には情報戦に長けていました。それが何故北朝鮮の攻撃を察知出来なかったのか?
更には韓国の防備が余りにお粗末。重火器が少なかったとか戦車が1両も無かったとか・・・
わざと防備を薄くし、北朝鮮の侵入を誘ったとしか思えません。そうであるなら、戦争前の37回に及ぶちょっかいも戦争を誘うためだったと頷けるのです。
つまり朝鮮戦争を仕掛けたのはアメリカだったのではないでしょうか?
何の為に?
私の推測ではこうです。
アメリカは朝鮮全土を支配下に置きたかった。その為北朝鮮に戦争を起こさせ、それを機に一気に叩いて北朝鮮を手中にしたかったのではないでしょうか?
所が中国軍が参戦した事により、目算が狂ったのだと考えます。マッカーサーの目論見は失敗に終わったと言って良いでしょう。
疑問はまだ在ります。
韓国側に住民虐殺が多いのは何故でしょう?この件に関しては、次の機会に纏めたいと思います。
歴史の闇が浮かび上がる
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